半分開いた12月の小窓 漫画原作を書いていた頃 PART 2
その瞳はわたししか見ない 月のしずくを髪に ミシュリヌは生きるよろこび ミシュリヌ十五さい
「キャンディ・キャンディ」の第一回掲載号である1975年4月号には、前年10月号から連載されている原ちえこ作画の「うたえ!ポピーちゃん(名木田恵子 名義)」と、前年12月号から連載されている志摩ようこ「ロリアンの青い空(加津綾子 名義)」 の最終回が掲載されており、同じ号に同一原作者名が幾つも並ぶのを避ける為に、名木田恵子は別名義の水木杏子を使用する事となった。
(梶原一騎の『巨人の星』連載終盤に開始された同原作者の『あしたのジョー』では、梶原の別名義である高森朝雄が使用されたのと同じ) キャンディ連載中にも『なかよし』には名木田恵子原作による読切作品や短期集中連載が何度か掲載されており、その際には加津綾子、香田あかね等の別PNが使用されている。 なかよし1975年4月号には
なかよし1975年9月号には
なかよし1975年12月号には
なかよし1976年5月号には
キャンディ連載以前では なかよし1975年3月号に
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「エトルリアの剣」は原作ではなく「原案」表記になっているが、それに関しては2003年に名木田恵子公認ファンサイト掲示板上で説明がされている。
レモン色の落葉と夕焼け 投稿者:名木田恵子 投稿日:12月15日(月)19時03分8秒
この時代は「新御三家」「ビッグスリー」と呼ばれていた郷ひろみ・西城秀樹・野口五郎の人気絶頂期であり、少女フレンド系の雑誌では毎号のように特集記事が組まれ、表紙への起用も多かった。
『ビビアンヌの王子さま』最終回が掲載された『週刊少女フレンド』1974年3月5日号(10/11合併号)の「ハッピーバレンタイン大特集」では、表紙が郷ひろみ、付録に「BIG3ラブピンナップ」、芸能記事コーナーも新御三家の活動情報中心であり、巻頭グラビアも新御三家をフィーチャーして「BIG3にささげる愛の詩」と銘打ち、それぞれのカラー写真と名木田恵子の書きおろしポエムを組み合わせた構成だった。
また同誌1977年8月20日号(16号)の巻頭企画「BIG IDOL5 夏の詩」では郷ひろみ・西城秀樹・草刈正雄・野口五郎・三浦友和のカラーグラビアに各一行のショートポエムを寄せている。 更に1979年には『なかよし』『フレンド』のお姉さん雑誌である『月刊ミミ mimi』に武藤義氏の撮影による西城秀樹のカラーグラビアが掲載された際にも名木田恵子がポエム「恋人に…」を書き下ろしている。
ポピーちゃんシリーズは作品の性質上、タイアップした人形のモチーフになっているアグネス・チャンなどの出番が多いのは当然なのだが、当時の少女たちの人気を反映して西城秀樹や野口五郎も登場している。
ちなみに名木田恵子の作家デビューは小学館『女学生の友』1967年11月号のジュニア短編小説賞、西城秀樹は1971年末発売の『女学生の友 JOTOMO』1972年1月号で芸名を一般公募された上でデビューしているという縁もある。
漫画ポピーちゃんシリーズと"スターにんぎょう ポピーちゃん"については古書店くだん書房さんの日記ページ(2014年3月1日)に画像と詳細な情報有。
半分開いた12月の小窓 漫画原作を書いていた頃 PART 2
講談社フレンドKC『ビビアンヌの王子さま』収録の「ローズピンクは初恋の色」は雑誌掲載時の見開き扉の右半分をカットした為に原作者名表記が落ちている。公式掲示板でその件について読者から質問を受けて回答。
和歌とペンネーム ◆ 水木杏子 2000-12-07 (Thu) 22:06:31
この年、『週刊少女フレンド』で十回ほどポエム掲載の他、
『別冊少女フレンド』2月号で テキスト:名木田恵子 イラスト:あべりつこ による「ある愛の詩」「シベールの日曜日」「初恋」「嵐ヶ丘」「おませなツインキー」「 小さな恋のメロディー」「ロミオとジュリエット」の七本の映画をテーマにした単発企画「バレンタインデーのあなたへ7日間の恋」が掲載。 この後、更に7月号~12月号までの半年シリーズで同コンビによる「ポエム&イラストルーム」が連載された。
半分開いた12月の小窓~漫画原作を書いていた頃 PART 2
もとやま礼子による「口笛のサニー」をルーツとして、後にアーバンファンタジー小説「ナイトゲーム」が執筆されている。
口笛のサニー 投稿者:名木田恵子 投稿日:12月 6日(土)23時05分44秒
「ムーンライト・エクスプレス」は1986年に集英社コバルト文庫から刊行後、一部内容を改定して講談社の青い鳥文庫fシリーズより2004年に『百の月 ムーンライト・エクスプレス』と改題し刊行。
「海時間のマリン」は白泉社『Moeモエ』1990年4 月号~9月号に連載(イラスト:早川司寿乃)、1992年に講談社から単行本化。2005年にブッキング/復刊ドットコムより再刊。 「ナイトゲーム 」は1985年に文化出版局よりソフトカバー単行本刊行後、1989年にMOE文庫スイートハートのレーベルで文庫化。大森一樹監督による映画化企画がシナリオ段階まで進んでいた。
この年、『週刊少女フレンド』では樋渡隆芳氏による当時の若手芸能人(本郷直樹、小倉一郎、青山一也、仲雅美など)の写真に名木田恵子のポエムを組み合わせた企画ページ"ロマンチック・フォトポエム「愛の花束」シリーズ"が6回ほど掲載されている。
小学館の月刊誌「女学生の友」は1971年の1月号~9月号に漫画中心の付録「JOTOMO COMIC ジュリエット」をつけていたが、それとは別に漫画と洋画・音楽バンド中心の増刊「ジュリエット」も刊行していた。
週刊少女フレンド1971年11月9日号(第46号)掲載の「ベティー=アンよかえれ」は、クリス・ネヴィルのSF小説 "Bettyann" (邦訳タイトル「ベティアンよ帰れ 」「宇宙少女アン」など)の翻案。
掲載時の作品扉では 名木田恵子のファンタジーシリーズ
となっている。
※尚、名木田恵子をフレンド誌にスカウトした編集者・東浦彰は、この年の5月に『なかよし』編集長に就任している。
「トランペットの思い出」は前年の昭和44年、別冊少女フレンド2月号に「夏の日の思い出」のタイトルでジュニア小説として掲載された作品を漫画化したもの。
参考:名木田恵子公認ファンサイト「妖精村」2001年10月のNews Flash
少年誌少女誌ともに、70年代初め頃までのマンガ雑誌では、詩や小説のような文芸や芸能スポーツ記事なども掲載されていた。
スポーツ実録ものと少年小説でデビューした梶原一騎が漫画原作に転向したのと同じく、もともとジュニア小説や詩作でデビューした名木田恵子も漫画誌に掲載する小説やポエムに起用され、漫画ブームにより少女小説の市場が狭まったために少女漫画の原作執筆にまわったパターン。のちのち80年代末から90年代初頭のティーンズ文庫ブームをうけて、名木田恵子の小説がフレンド誌の付録になるという回帰もあった(少女フレンド平成元年2月20日付録 FRIEND DREAMIN’ BOOK『人魚の椅子』 イラスト:前原滋子 )。
世界のティーンシリーズ は人気漫画家による世界各国を舞台にした読切連作
11月の小窓 漫画原作を書いていた頃 PART 1 (略)青池保子さんとはそれからもご縁があって、わたしの初めての週刊少女フレンド誌の連載<グリーンヒル物語>でもコンビを組むことになりました。
『週刊少女フレンド』1970年50号~1971年22号に連載された「グリーン・ヒル物語」終盤には、1977年10月1日公開の映画「幸福の黄色いハンカチ」(監督:山田洋次)とよく似たエピソードがある。その件に関する水木杏子旧公式サイト掲示板「ガーデンテラス」での原作者発言。
グリーンヒルのエピソード ◆ 水木杏子 2000-12-02 (Sat) 23:10:33 木枯らしの夜はココア? ◆ 水木杏子 2000-12-07 (Thu) 21:58:48
倍賞千恵子がこの話を知ったのは、渡辺貞夫の娘にTony Orlando & Dawnの"Tie a Yellow Ribbon Round the Ole Oak Tree"を聴かせてもらったのがきっかけであり、それが山田洋次に伝わり映画化につながったという逸話が倍賞の著書『倍賞千恵子の現場 (PHP新書 2017年刊)』で明かされている。
数年間刑務所に入っていた男が愛する人に「まだ自分を待っていてくれるなら、町の入口にある大木に黄色いハンカチーフを結んでおいてくれ」と手紙を出し、いよいよ帰郷してみると、バスの窓から見える大木には数百枚の黄色いハンカチーフがたなびいていた……という物語は、1971年10月にThe Postに掲載されたPete Hamillのコラムが有名だが、「グリーンヒル~」の最終回掲載号のフレンド誌は1971年5月25日発行である。 コラムの筆者ピート・ハミルもインタビューで「それまでも文人酒場で何千回も耳にしたネタ」と発言している通り、これはアメリカではポピュラーな口頭伝承らしい。 参考: The Post column that sparked ‘The Yellow Handkerchief’ (February 26, 2010) この物語のルーツについては世界の民謡・童謡の背景に関する研究ページ「ドナドナ研究室」内で詳細な検証がされている。 参考:黄色いリボンの謎 ドナドナ研究室 上記サイトの検証資料と突き合わせると、1949年年生まれの名木田氏が小学生の頃に聞いた「汽車・白い布」の物語は、ペンシルバニア州の州刑務所所長からの聞き書きを収録した1959年刊行の『Star Wormwood』が元であるのは間違いないだろう。 ちなみに同じ口頭伝承をもとにしたと思われる三原順の初期作品「赤い風船のささやき」は1974年『別冊マーガレット』9月号掲載である。 |
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